わからなさが詩を書かせる・吉野弘の詩

文芸評論家の池上冬樹さんがミクシィの日記で吉野弘の詩、『生命は』と『動詞ぶつかる』を紹介されていた。
実は自分は40年も前の高校生の頃から思潮社発行の「現代詩手帖」を長らく愛読し、数年前にその思潮社を主宰しておられた小田久郎著「戦後詩壇私史」(大佛次郎賞)を読んでおり、特に同じふるさとを持つ者として吉野弘の詩に強く引かれていた時期があった。
娘や息子の誕生の時期あたりなどは特にそうであった。

やがて40歳に近くなり仕事が多岐にわたり、子会社の立ち上げや海外プロジェクトを任されたりしているうちに、詩集を開くことも無くなった。

それが去年の春から配偶者と高原農場を借り、野菜作りに週末精を出すようになってから季節の移り変わり、空の変化や色具合、風の流れ、陽の光り輝き、雨が降ることの嬉しさなどを実感するにつけ、つくる野菜に対しての慈しみの感覚が<吉野弘の詩から感じていた世界と似ているなぁ>と思っていたところだった。

早速書棚から思潮社刊の詩集・続詩集・続々詩集を引っ張り出してきて、週末の休日の午後カミサンとコーヒーを飲みながら開いてみた。