坂道の途中

 文京区小石川、大曲から安藤坂を登りきって、伝通院を右に曲がると善光寺坂。
 その坂が降り出す際の処に旧幸田露伴宅がある。
 そして丁度その横の坂道の真ん中に椋の木の巨木、樹齢300年余、青木玉さんは『私の大切なもの』
 の一つにその木のことを書いていた。
 が、別の書に「もう一度小石川の家に戻りたいかと云われたら、即座に御免蒙ります。」とも書いてい た。

 所帯を崩した文が、当時9歳の玉さんを連れて70歳を超えていた露伴の元に帰ってくる。
 露伴に対する面目から、文は料理をはじめとする家事万般を最高の水準で維持しようとする。
 幸田露伴幸田文の愛読者でなくても誰とて知らぬ者ない、高名なエピソードである。

 善光寺坂を左に折れ幸田家の前を通り坂を降りきった突き当たりに、俺が3年余り暮らした、
 学生寮があった。
 6歳の時に浅草出身の父をなくした俺は大学進学で上京するとすぐ、父の生まれ育った浅草、
 日本堤界隈を訪ね歩き、父のかつての長屋住まいの隣人家族の方たちにようやくたどり着いたものの
 父の生家は、とうに無くなっていた。

 「甘美さなんてありませんでした。」と玉さんは『小石川の家』に書いていた。
 露伴の気魄が家中に充満していて、家の中のどこに居ても居場所がなかった。
 怖かった、怯えていたと。

 だが、今という世間に居る俺は、父露伴の食卓のために心血を注ぐ文の姿、父、子、孫の交際に、
 何か美しいもの、甘やかなものを感じてしまう。

 俺はその学生寮での3年余の怠惰な日々から、気がつくと厄介な五十男になっていた。
 五十といっても今の世間並みの五十である。

 胸中にあるのは物心ついた時と変わらぬ童子同然の自分。
 内実は子どもであっても身にくっついているものは、年相応だから始末に悪い。
 相応を遥かに超した不相応な代物まで抱え込んでいる。
 家人、子ども、係累、仕事、部下、借金、様々な物や品、事情と拘り、
 屈託と狂騒と退屈と回り道。
 回り道の日々が思い出される。
 椋の巨木を見上げながら20歳の俺は、上京してきた母と幸田家の前に佇み、
 無花果の生る庭先を眺めていた。夏の終わりのことだった。

 夕暮れであった。
 遠くの火事を映したような赤味を帯びた灰色の空が告げる夏の終わり。
 さっきまでの身も蓋もないような強い雨が地面を叩いた後に、少しだけ晴れ間を見せたかと思うと、
 夕闇がなだれこんでくる。
 まだ雨雲の暗さを残した空に、丁度その合間に落日が豪勢に赤を広げていく。
 おそらく母と眺めたその年はじめての夕陽であった。

 大学生活は予想した日々から程遠く、持病が再発悪化、砂をかむような無残な日々の連続を、
 たまの手紙の背景に敏感に感じ取った母が、上京。
 坂の多い小石川を歩きながら夕立にあい、伝通院そばの喫茶店で話し込んだあと、
 「学生寮の寮母に土産を」という母を案内、その途中、幸田家の前に差し掛かった時のこと。

 女手一つの乏しい生活費を工面しわずかな仕送りさえままならぬ、
 ゴメンネとしきりに謝る母の気持ちにどう応えていいのか。
 
 自分の先々の身の不安定さより、意思の弱さが先にたっての不甲斐なさ、確としない己の、
 決意の弱さを蹴飛ばしてやりたくなっていた。
 
 母は幸田文同様、嫁ぎ先から生家に戻り、実母亡き生家での老いた父と病床の弟との生活の中で、
 俺の父と出逢い再婚した身の上でもあり、言葉には出さぬが、幸田家の前からしばらく、
 動こうとはしなかった。
 その胸の奥底に沈殿する澱のような心もちを20歳の俺はわからぬ振りをしながら、
 先を促したことを後悔している。

 寮に降りる坂道の途中で母が、
 「この先どうするつもりなの?」
 「自分で何とかするさ。」
 「あてはあるの?」
 「あてなど、ないけど・・・」。

 確実に手で差し出せる現実も持ち合わせることの出来ない20歳の俺を、母はどう見ていたのだろう。
 その母も20年前に亡くなった。
 そして未だこの先、確実な予定された人生などのないことを、
 ようやくわかってきた此の頃。

 まだまだ、坂道の途中なのだ。